寄せ場の労働者——I氏の流動(原口 2016)

 I氏は、1951年、岡山県山間部の農家に生まれた。4人兄弟の末っ子であった。小さな農家の生活は厳しかった。家族の総出で、米や煙草、桑を育てた。しかし、それらの収入だけでは、とても生計は成り立たなかった。農業のかたわら、父親は製材をする木挽職人として収入を稼ぎ、兄は冬になると酒つくりの杜氏として出稼ぎに出た。

 小学校のとき、母を癌で失った。そのことをI少年が意識したのは、4年生の授業参観日のことだった。「あ、そっか。俺には、もう二度と母親おらんのやな」。それまでずっと遊んでばかりいたI少年には、家族をしっかり支えていかねばという自覚が芽生え、勉強をがんばった。がんばるうちに勉強はおもしろくなって、高学年になると成績はよくなり、友人たちがI少年を見る目もかわった。けれども家は貧しく、給食費や学級費のことさえ、父親に言い出しにくかった。

 15歳。高校に行きたかった。行くつもりで勉強していた。教師も、進学を勧めてくれた。しかし、2歳年上の姉がすでに高校に通っているなかで、I少年が進学できる金策は尽きていた。自身も職人である父親は、おまえは職人になるほうがいい、と息子に論した。「で、結局、ま、行かざるをえない、こっち〔大阪〕へ就職するようになったんやけどね、15のときに、学校、もう卒業してね。もうしゃあないから、食いぶちが減る方がええっちゅうてな。こっち、大阪へ出てきたんかな、あのときはね、僕らも15で」。

 大阪で就職した先は、市内の十三にある配達会社で、ベニヤなどの新建材を扱っていた。勉強を諦めたわけではなかった。夕方5時から、夜間高校に通わせてもらえる約束だった。だが、待ち受けていたのは挫折だった。配達助手の仕事は、外回りの仕事が終わるまで会社に戻ることはできなかった。戻る頃にはたいてい5時をまわっていた。「社会ってこんなんやなあ、って。ほんと、めちゃめちゃ、僕も勉強やり出すとおもしろなって、これから高校行ってから、がんばったろうか思っとった芽をバッと摘まれたんかな。それでいやあな感じになってね」。やりきれない思いをかみ殺す生活のなか、職場の先輩から教えられたのは、ばくち麻雀だった。うぶなI少年は、格好のカモだったわけだ。せっかく稼いだ給料も、毎週土曜の徹夜麻雀で、根こそぎ奪われた。職場の先輩だけでなく、社長の息子までいるのだから、誘いを断れるわけもなかった。

 配達会社は辞めた。岡山に戻って、大工職人に弟子入りした。酒を覚えたのもこのころだ。酒癖は悪かった。「まあ、でも、中卒やからそんなもんやねえ。高校とか行ってる人は羨ましくて、嫉妬しとったからな、劣等感があったしな、ずっと劣等感持っとったからな、コンプレックスの塊やからな。……劣等感持ってずっと過ごしとったから、いじけとったね、やっぱり。それをお酒とかで発散させて、ついつい粗暴になったり、どうしてもそんなんが心にあるから、どうしても飲んだときにそんなんが出てくるから、なあ。どうしても人に対してついつい乱暴なこと言うたりとか、しとったんやけどなあ」。

 酒の勢いで、取り返しのつかない失敗をした。よりによって、村の住民や同僚の目の前で、親方に楯ついてしまったのだ。親方の面目を潰してしまったI少年は、大工職人の道もあきらめざるをえなかった。18歳の頃だ。

 身をもちくずしたあげく、ふたたび大阪に戻ってきた。あてもなく天王寺あたりをさまよっているときに、声をかけられた。「兄ちゃん、何、ぶらぶらしてんかあ」、「ほんなら自衛隊でも入ってみるかあ」。声をかけたのは、自衛隊の勧誘員だった。食い扶持が必要だったし、それに、とにかく人に逆らう自分の性格をなんとかしたいという思いもあったので、入隊することにした。配属先は、山口県防府市の航空自衛隊だった。入隊して1ヶ月のあいだ、外出禁止の集団生活を送る。やっと訪れた自由行動の日に、これ幸い、とばかりにビールを飲みまくる。酔った勢いを借りて帰りのバスで上官に楯つき、結果、除隊することになった。

 とはいえ、自衛隊も人手不足だった。すぐに、山口市の八幡馬場で陸上自衛隊に入隊することになった。こんどこそ集団生活に慣れよう、それに大型免許もとれる。そうした思いを胸に、北海道への配属を希望した。だが、またも期待どおりにはいかなかった。視力測定の検査をなんどやってもパスすることができず、免許は取得できなかった。「なんぼ僕は努力してもこれはあかんなあ思って、また嫌になってね。また裏目に出たから、もうせやからこれはあかん思って。また、自衛隊、外出届けを出して、もう帰らんかったんかな。そのままスナックで飲んで、恵庭〔札幌市に近接するまち〕の方やったから、僕、もうスナックで飲んで、10時なってまで飲んで。もう門限も破って、もうそのまま飲んだくれて、ほんで、恵庭からまた函館の方まで行ったんかな、列車で」。函館に着いたときには、50円しかもっていなかった。パチンコ屋が従業員募集の張り紙を出しているのが目に入った。「もう背に腹は代えられん」、腹をくくってパチンコ屋に飛び込んだ。2日間働いたところで、自衛隊にみつかり、連れ戻される羽目になった。

 このとき20歳になっていた。自衛隊からは自己都合退職を迫られた。自衛隊から紹介された仕事は、札幌の運送会社の助手の仕事だった。巨大な冷蔵庫をひとりで運ぶ、きつい仕事だ。十代のころから大工として働き、自衛隊でも身体を鍛えた。その身体が悲鳴をあげるほどの重労働だった。長くは続かず、2ヶ月で辞めることになった。

 なぜかわからないが、愛媛県出身の自衛隊での同期が、I氏を追いかけるように自衛隊を辞め、同じ運送会社で働くことになった。ひとつ年下で、同期の彼も中卒だった。「そら、なんでも話せる仲でな。ええダチやったけどな」。I氏に「霞町注」という耳慣れぬ地名を教えたのは、この同期のダチだった。「ここ〔釜ヶ崎〕をよう知っとったんよね、田舎からこの子も出てきて、中卒で、高校出てないからね。ここへ、僕より前にここへ来てんのよね。来て、この霞町いうのをよう知ってたんよ、そこの霞町のことを。僕ははじめ、霞町、なんのことやわからんかったけど、ね。そこの霞町はこういうとこや、現金あるんや、いうことをな、……よう教えてくれとったんやわ、自衛隊入ったときに、仲良かったからな」。

 もともと、本州に帰りたいという気持ちは高まっていた。「霞町」という地名だけを手がかりに、I氏は大阪へと三たび辿りついた。そうしてI氏は、寄せ場の労働者になった。のちにI氏は、「霞町」の名前を教わったダチと、その街で再会することになった。彼もまた、寄せ場の労働者になっていた。「寄せ場」では、ありふれた話である。

注 霞町とは、釜ヶ崎地域内の太子交差点付近の一帯を指す呼称。この呼称はやがて使われなくなった。

原口によれば、以上の記述は2009年11月11日、17日、12月27日に原口が実施した聞き取りから再構成したものである。


原口剛,2016,『叫びの都市——寄せ場、釜ヶ崎、流動的下層労働者』洛北出版.pp.278-83