あつしさんのケースから(山口 2020)

 あつしさんは1960年代に関東圏で生まれた。中学校卒業後、大手菓子製造工場で3年ほどアルバイトをしたのち、飲食業を転々とする。「家出ぐせ」があったことや家族と折り合いも悪かったことから、実家とは疎遠になっていったという。

 これまで最も長く働いたのは、雑誌や新聞で見つけた、本の仕分け作業や引越し、事務所移転作業などの日雇派遣の仕事である。その頃には3、4人の仕事で会った仲間とつるんで、仕事や泊まる場所の情報交換をしつつ、お金があるときにはカプセルホテルや漫画喫茶にも泊まっていた。その後、「人が足りない」という友人の誘いで解体の手元(職人の補助的作業をする労働者)などの建設日雇の仕事もするようになった。当初は友人宅に居候して一緒に仕事に行っていたが、その友人が家賃滞納でアパートを退去となったことから、飯場(建設業の作業員宿舎)に入って働くようになった。以降、主に高田馬場の手配師(日雇いの建設作業などをあっせんするブローカー)を通じて飯場仕事をした。

 彼は1990年代に初めて野宿した。野宿生活の際には、上記の日雇仕事の他、仲間に声をかけられてさまざまな都市雑業(都市のインフォーマルな仕事)でも働いた。極力働いてやりくりして食べるようにしていたが、ときには支援団体の炊き出しも利用し、本当に困ったときだけコンビニなどの廃棄食品も利用した。住まいの形態は、テントや小屋を作ると、定期的に掃除が行われる一斉清掃のときなどに一時的に片づけるのが大変なので、寝るときだけ小さな段ボールの箱を作っていた。高田馬場で野宿していたころ、ホームレスの支援団体の夜間パトロールに出会い、炊き出しの手伝いなどで初めて山谷(関東最大の伝統的な寄せ場)を訪れた。野宿場所を新宿駅周辺に変えた1990年代半ばには、新宿駅西口における野宿者や段ボールハウス群の強制排除への抵抗運動にも参加した。西口の強制撤去後は、渋谷や銀座、日本橋などに移動した。

 2010年頃、あつしさんは体調を崩して支援団体が河川敷で行う医療相談会に行った。そこで診療所を紹介され、その勧めで福祉事務所に相談に行き、当時のホームレス自立支援事業である緊急一時保護センターに入所した。その後、生活保護を受け始め、福祉事務所の指示で大手の無料低額宿泊所に入所した。そこは2段ベッドで4人部屋、食事は朝夕の仕出し弁当で、保護費から10万円ほどを引かれて、手元の支給額は月3万円だった。「ここはちょっととんでもないところだから」といううわさも聞いており、数カ月で自主退所した。この間、屋外にいると宿泊所の勧誘員から、入所して生活保護をとらないか、と何度も声をかけられている。

 その後、しばらく東京東部で野宿していたが、別の支援団体の相談会に行き、のち福祉事務所に生活保護の申請に行った。しかし当面の居所として再び同様の施設への入所を促されたために拒否し、別の福祉事務所で申請した。そして当面の居所として、新聞広告で見つけた「シェアハウス」に入居した。6階建てマンションを改築した建物で、8〜10畳の部屋をコンパネで3つに仕切ってある部屋が、月に約5万円だった。およそ1年後、区内でアパートを探すよう福祉事務所から指示され、友人に紹介された不動産会社を通じてアパートに入居した。現在は働いていないが、ケースワーカーからは仕事を探すことを強く勧められている。現在最も心配なことは、アパートの契約更新ができるかどうかということである。たまに支援団体の活動に顔を出し、なじみの支援者や仲間と旧交を温めることもある。

ホームレスを取り巻く排除と包摂の諸相

 あつしさんの事例からは、東京におけるホームレスの人々を取り巻くさまざまな構造が透けてみえる。まず、あつしさんのように低学歴でブルーカラーの不安定な仕事を転々として、職住一体化した建設日雇の仕事や日雇派遣の仕事に参入して野宿生活へと析出されるという過程は、東京で男性がホームレス状態になる場合のひとつの典型であった。

 フォーディズム期の日本の高度成長期における建設業の高い労働需要、および「失業の受け皿」としての労働力吸収機能は弱化している。一方で、低賃金、不安定な軽作業やサービス業は増大しており、彼はずっとそうした仕事についている。構造改革、規制緩和の名のもとに労働者派遣法を改正するなど積極的に非正規雇用を増大させている日本の雇用情勢のなかで、彼が正規雇用の仕事につくなどして自力で住居を確保するのは大変困難なことである。あつしさんのような一貫して不安定雇用のもとにあるホームレスの若年層も増加している。

 しかもそもそも日本では、国籍や住民票、連絡先などの帰属証明が存在証明として重要であり、それが仕事の獲得や社会福祉などの制度へのアクセスの基本となる場合が多い。不安定な居住や住所がないという状況はあらゆる社会参加から排除され、かつ強いスティグマともなるのである。そこから生活を立て直すのは容易なことではない。

 しかしあつしさんの場合は、緊急一時保護センターから生活保護の受給のもとに民間の宿泊所へ、そして一度離脱したのち、生活保護を受給しつつシェアハウス生活、そしてアパート生活へと、基本的には行政のホームレス支援策のもとで、最終的にアパートを確保している。

 この背景には、東京都の積極的なホームレス対策がある。1994年以降、東京都は増大する「路上生活者問題(のちにホームレス問題)」を、人権問題と公共空間の適正利用問題と捉え、暫定の自立支援事業などの取り組みをいち早く始めた。そして先述したように、2002年にはホームレス自立支援法が成立した。東京都では、緊急一時保護センターと自立支援センターを柱とした「自立支援システム」の構築・運営、対象となった公園の居住者は月3000円でアパートに入れるという地域生活移行支援事業の実施、生活保護申請の支援活動の活発化、そして2010年頃からは「新型自立支援システム」の再構築と、断続的に対策を行ってきた。生活保護制度も国からホームレス層への適用の通達があり、以前に比べると受給がすすんだ。

 それに加えて、民間の無料低額宿泊所やシェアハウスの増大は、路上や不安定な寝場所から、ひとまず一定期間は安定的に屋根の下へと移動する、という意味での包摂に多大な貢献をした。あつしさんが経験したように、アパートに入る前にはまず民間の宿泊所(および簡易宿泊所など)に入所することになる。これは路上から直にアパート入所はさせないという東京都の慣行である。その受け皿となる民間の宿泊所やシェアハウスのような施設は生活保護で確実な運営ができるため、それをあてこんで爆発的に増加した。

 むろん、手厚い福祉サービスを行うボランティア団体やNPOなども増加し、行政サービスの事業委託やパートナーシップがすすむなかで、きめ細やかな援助を行うところも増えた。しかし、彼が過ごしたような酷い居住環境のところも多く存在し、「貧困ビジネス」「生活保護ビジネス」という指摘もある(湯浅 2007; 稲葉 2009)。東京都はこうした宿泊所の規制を強化したが、結局、都にとっても必要な施設で、共犯関係にあるのである。

 あつしさんは、図13-1(※東京23区の野宿者数の推移)のグラフから消えた典型例の一人である。しかし、アパートに入居することが「包摂」の完成ではない。生活保護受給後、ケースワーカーはあつしさんに就労することを強く求めている。東京都はとりわけ2000年代に入ってから、被保護世帯の自立支援策の必要性を強く訴え、「就労自立の促進」「保健・医療面での自立促進」などを積極的にすすめているのである。

 しかし先述したように、継続的に「就労自立」できるほどの安定した仕事につける可能性は、中高年の彼にはほとんどない。これは自立支援センターなどでの「就労自立」についても同様である(北川 2006)。ケースワーカーとの関係に気を使い、仕事を探せと追い立てられ、アパートの契約更新におびえる状況からは、やっとアバートでの生活保護受給にたどりついたあつしさんでさえも、心身ともに安定した生活にはほど遠いことがわかる。

生き抜くこと

 いうまでもなくホームレス生活とは、飢えや痛み、寒さ暑さ、見通しのなさ、ときに差別、襲撃にさらされ、不安定で困難なものである。しかも行政による包摂の仕組みができたからといって、誰もが利用できるわけでも、すぐにたどりつけるわけでも、それを維持することができるわけでもない。ゆえに、あつしさんの経験のなかには、困難な生活を生き抜くためのさまざまな知恵や生活様式というべきものがみてとれた。

 例えば、彼は野宿していたとき、さまざまな都市雑業で働いて何とか現金収入を確保していた。東京では野球やコンサートのチケットを購入するために並ぶ「並び」、特売商品の代理購入の「バイヤー」、駅などで捨てられた雑誌や本を集める「本拾い」、アルミ缶などの缶集めや廃品回収など、さまざまなニッチな仕事があった。こうした仕事は人口の集中する都市ゆえに成り立つものであり、都市社会の既存のシステムに食い込んで、稼ぎをひねり出すのである(山口2008)。こうして路上や公園で生活する状態が続くと、そこから生き抜くためのパターン化された生活を確立していくような「生活の型の確立」もみられる(妻木 2003)。

 また、不安定就労に加えて実家などを頼れない状態のあつしさんは、カプセルホテルや漫画喫茶を利用すること、および職住一体化した仕事につくことで屋根を確保する。そのときに同じ状況の仲間とつるむことは、彼にとって大きな資源となっていた。よりよい仕事やより安く泊まれる場所の情報交換を頻繁にしたり、物を融通しあったり、一時は家に居候させてもらったりもしながら、生き抜いていた。

 さらに、民間の支援団体も大きな力となっていた。彼は新宿で生活していた頃に、山谷や渋谷での機会を含めてさまざまなボランティアや支援・当事者団体と知り合っている。新宿駅西口の強制排除のときには、それらの支援者とともに抵抗運動に参加して異議を申し立て、権利獲得を訴えた。そうしたつながりや情報はその後の生活でも役に立ち、あつしさんは体調が悪くなると、すぐに支援団体の相談会を利用し、施設にたどりついている。先述したように、東京では1990年代半ば以降、支援団体が増えており、相談や情報収集をへて、次につながる機会は少なくない。あつしさんは困ったときには相談に行き、利用するのである。またそうした路上での活動にたまに顔を出すことで、なじみの支援者や仲間と言葉を交わし、励ましあったり、気分転換したりしている。

 このように構造に規定されるだけではなく、行政やサードセクターを利用しつつ、時に集まり、離れ、あつしさんの生活世界は広がっていた。こうした生き抜き方の諸相には、行政が想定する制度や他者の助けを借りずに一人で自立するという自立観を相対化したり、公共空間の複数性を指し示す可能性がある。

 例えば、笹沼弘志は、野宿者が生きるために公園にテントを建て、土地を耕して作物を育て、それを近隣の住民や通りすがりの人々が買っていくという出会いの場を紹介している。そこには空間を自己の排他的占有の対象とする思考ではなく、常に不意の訪問者にたいして開かれている「無条件の歓待の場」があり、ここにもうひとつの世界をつくる可能性を見ている(笹沼 2008)。また山北輝裕は、集団で暮らす野宿者の生活の場を中心とした野宿者および支援者などの緩やかなネットワークである「路上コミュニティ」が、路上コミュニティであるがゆえに地域と「対話」していく可能性があることを指摘している(山北 2010)。


山口恵子,2020,「都市下層から照射する都市の姿――ホームレスをめぐって」玉野和志編『都市社会学を学ぶ人のために』世界思想社,176-91.pp.181-7