支援やケアを考えるとき、「支援を行う」「支援を受ける」「ケアをする」「ケアをしてもらう」と表現される。これは支援、とくにケアを「行為」あるいは「物」「知識」としてとらえていることを表す。この場合、ケアを実施する側は、持つべき「専門性」の中身として、知識の量や経験、さらに対人援助スキル等を要求される。当然、これらの「行為」や「知識」「技術」が必要であることはいうまでもない。当事者は、本来知るべき権利や制度、法律について知識を持っていないことが多い。問題を解決するために、それらを誰かから提供されなければならない。確かに、ケアの第一課題は問題の解決であり、そのために知識や技術、つまり「物」の確保が必要である。
一方で、知識や技術を持つ専門家が、持たない困窮者にそれを授与することにとどまるとき、支援者による当事者の支配という危険を生む。持つ者が持たない者をケアするという構図は、持つ者による持たざる者の支配につながる。さらに、ケアを支援者の所有物とすることは、支援者自身に、常に自己のケアのあり方に対する不安、すなわち自分が所有している知識や技術が十分であるかどうかについての不安を抱かせる。なぜならば、支援者によるケアの所有物化は、ケアを支援者個人の力量問題と理解し、相談を引き受けた自分の責任における事柄だとの認識に至るからである。これがさらに進むと「自分が手放せば相手は死んでしまうのではないか」というパターナリズムに基づく強迫観念さえ生み出す。支援者は、「自分が努力すれば治る」「もっと自分に力量があったら解決する」という、行き過ぎた責任感を抱くようになる。結果、ケアにおける相手の抱え込みが起こり、支配が強まる。このような状態は、それがたとえ支援者側の熱心さや「愛情」から出ていたとしても、ケアとはいえない。それは共依存状態である。
では、ケアとは何であるのか。それは、支援者と当事者の間に生まれる「関係」そのものである。「関係」であるがゆえに、ケアは当事者と支援者の共同作業的枠組みの中で展開される。一方が一方を支配し指導するのはなく、また一方が一方に何かを授与するということでもなく、問題に共に向き合い、共に解決へと向かう。支援者と当事者は、共通する課題に対する同志的存在である。伴走とは、そのような相互の関係を意味している。
先に述べたとおり、ケアは問題解決のためになされる。だが、今日のように当事者が抱える問題が複雑・多様化する中にあっては、「問題あり」と「問題なし」の状態が明確に区分できない事態となっている。あるいは、不安定就労の拡大、年金などの社会保障制度の先行き不安など、不安定な社会に「復帰」するのであるから、いったん問題が解決してもその後同様の、あるいは別の問題を新たに抱えることも珍しくない。そうなると、問題解決だけを目的としていては、その後に想定される「次の危機」に対応できないことになる。人生は常に「山あり谷あり」なのだ。よって、「いつでも相談できる関係」、これこそが実はケア第一の目的なのである。ケアが問題解決のみならず「関係構築」を目指すがゆえに、「伴走」はそれ自体大きな意義を持つことになる。繰り返すが、伴走は問題解決のための手段として必要であるとともに、伴走という状態そのものが重要であるのだ。それは、たとえ問題解決が困難であったとしても、伴走という関係、共にいる他者の存在がケアそのものであることを意味している。
では、伴走が生み出す「関係」としてのケアの本質とは何か。それは「物語」への参与である。「物」としてのケアが必要であることはすでに述べたが、「物」が「物」で終わるのではケアの効果は限定的なものとなってしまう。
たとえば炊き出しの弁当を考えてみる。ホームレス支援は炊き出しから始まる。一方で街ではさまざまな食べ物が手に入る。それは残飯であり、ゴミである。が、食べられるものも少なくない。「物」としてのみ見るならば、廃棄されたスーパーの弁当も炊き出しの弁当も何ら変わらない。いや、捨てられた弁当のほうが豪華であったりもする。だから、食べるだけならば、寒空の下、炊き出しの列に並ぶ必要などない。では、なぜ人々は炊き出しに並ぶのか。それは、「物」である弁当に人が関わることによって、そこに「物語」が生まれるからだ。「これはあなたのために準備されたお弁当だ」という「物語」が、「物」である弁当に付与される。「物」に人が関わることによって物語が生まれる。伴走によって生まれる「関係」は、このような物語への参加を促す。
労働においても、労働に意義を与えるのは、他者の存在なのだ。「人は誰のために働くのか」、このような意味づけ、「物語」化こそが伴走の意義なのである。
伴走型のケアは「関係」そのものである。そして、その「関係」が意味するものが「物語」への参加である。社会は物語の舞台であり、さまざまな人によって構成されている。しかし、社会的排除はこの舞台から人々を降ろした。いったん舞台から降りると役割もセリフもない。伴走により関係を取り戻すことは、この舞台に再び参加することである。舞台には、その人にしか果たせない役柄(役割)とセリフがある。
ケアをそのようにとらえることにおいて重要なのは、その舞台には支援者も当事者も等しく一出演者として立っているということだ。伴走は、平等な関係である。伴走する相互は、支援-被支援の関係を超えて、舞台で展開される「物語」を担う共演者である。伴走は、相互を同志的関係として理解する。そのとき、支援者が支配者となる危険を回避することができる。
さらに、舞台にはより多くの人が登場することが望ましい。一見、現在のストーリーには関係ないと思われる人物が、ある場面において重要な意味を持ち始める。それが面白い舞台の条件であるo支援者は、当事者が社会という舞台に参加しやすくするように支援し、同時にその舞台により多くの人が参加し、当事者と絡んでいけるようにコーディネートしていく。舞台においては、役柄は変化していく。助けを必要としていた人が、物語が進むにつれ今度は助ける人になれる。悪役が正義の味方になることさえ起こる。よい舞台とは役割の変化が起こる舞台である。「助けられ役」と「助け役」が固定化している舞台は見ていて面白くない。
奥田知志,2014,「伴走の思想と伴走型支援の理念・仕組み」奥田知志・稲月正・垣田裕介・堤圭史郎『生活困窮者への伴走型支援——経済的困窮と社会的孤立に対応するトータルサポート』明石書店,42-98.