なぜ集合意識とよぶのか(Durkheim 1893=1971: 80-1)


Durkheim, E., 1893,De la Division du Travailsocial, Paris: Alcan. (田原音和訳,1971,『社会分業論』青木書店.)

 いまや、われわれはついに結論を下すことができる。同じ社会の成員たちの平均に共通な諸信念と諸感情の総体は、固有の生命をもつ一定の体系を形成する。これを集合意識または共同意識とよぶことができる。もちろん、それはただひとつの機関を基体としてもっているわけではない。それは、定義によって、社会の全範囲に広く分散している。にもかかわらず、それはみずからを明確な一実在たらしめる諸特質をもっている。じっさい、それは諸個人がおかれている個別的な諸条件とは無縁である。個人は過ぎ去るが、集合意識は残る。北国においても南国においても、大都会でも都市でも、あるいはどんな職業においても、それは同一である。同様に、それは世代ごとに変わったりはしない。むしろ、ある世代とつぎの世代とを結びつける。それだから、集合意識は諸個人のうちにおいてしか実現されないとはいえ、各人の個別的な諸意識とはまったく異なったものである。それは社会の心理的類型である。様式こそ異なっているが、個人の諸類型とまったく同様に、みずからの属性、みずからの生存条件、みずからの発達様式をもつ類型である。だからこそ、それは右のような特別の用語でよばれるのが至当である。実をいえば、われわれが右に用いた用語にはあいまいさがないわけではない。集合的という用語と社会的という用語は、よく同じものとして使われることがあるから、集合意識とは社会意識のすべてであると思いこみやすい。すなわち、社会の心理的生活と同じ広がりをもっていると思われがちである。ところが、ことに高級社会では、集合意識は社会の心理的生活のごく限られた一部分にすぎないのである。司法・政治・科学・産業の諸機能、要するにあらゆる特殊的諸機能は心理的次元のものである。というのも、それらが表象と活動の諸体系から成り立っているからである。だが、これらの機能は、あきらかに共同意識の外にある。これまでにおかされてきた混同を避ける最上の方法は、おそらく社会的類似の総体をとくに示すような術語をつくりだすことであろう。そうはいっても、新語の採用は、それが絶対に必要だというばあいでなければ、かえって不便なものであるから、集合意識または共同意識という使いなれた表現をとっておきたい。ただし、われわれがこの語を使うのは、いつも狭い意味においてであることを想起しておきたい。

 こうして、上述の分析を要約すれば、ある行為は、それが集合意識の強力かつ明確な状態を侵すとき犯罪的である、ということができる。

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