庄司洋子,2013,「ケア関係の社会学――家族のケア・社会のケア」庄司洋子編『シリーズ福祉社会学 4 親密性の福祉社会学——ケアが織りなす関係』東京大学出版会,1-20.p.6-8
ケアとは、一般に、日常的な生命と生活の維持に必要な身体的.身辺的な援助を指すことが多いが、こうした基本的な狭義のケアの外縁には、さらに広い意味でのケアが拡がっている。生命と生活の維持という点では、家事といわれる買い物・調理.洗濯・清掃などの援助も、身体的・身辺的な援助と不可分な関係にある。家族ケアにおいては「世話」と表現されてきたようなこれらの援助のほかに、話し相手、遊び相手、食事の相手等、ともにあること自体が意味をもつ援助や、連れ出し、付き添いなどのように、行動を促したり不安に備えたりするための控えめな援助、さらには、傾聴、見守り、などのように静穏な関わりが求められる援助もある。こうしたケアの拡がりに目を向けると、ケアの世界は、能動的で可視的な援助だけからではとらえられない、存在と関係の価値を含む限りなく豊かなものであるという認識にたどり着く。近代社会のなかで価値を増してきた諸行為の効率性とは対照的な、個別性が高く非効率の極みともみえるケアという行為と関係のなかにこそ、真の人間らしさがあることを、再発見していくのである。木下康仁が高齢者のなかにいちはやくとらえた老いとケアの世界は、そのようなものであった(木下 1997)。
こうしたケアの内容の多様性も、人間の生の全体性を介して、逆にケアの世界の全体性を導き出していく。近年、ケアとは何かをめぐって、その本質に迫ろうとする議論が活発であり、越境的ないし学際的なアプローチ・生と死の全体性への着目等により、ケアの哲学ともいうべきものが構築されつつあるといえる。
その先駆的なものとしては、ミルトン・メイヤロフの仕事がある(Mayeroff 1971)。彼は、ケアとは何かについて、その要素や特質を整理したうえで、ケアを「その人が成長すること、自己実現することをたすけること」と定義しているが、とくに「それにより自らも成長していく」という論旨が注目される。ケアの哲学の必要性を説き、ケア学を提唱する広井良典は、ケアは「時間」と密接に関係しているとして、ケアとは「時間をあげること」「ともに時間をすごすこと」、と端的に表現する。これもケアの担い手には深く共感を呼びそうな定義であり、平易であるがゆえに説得力が感じられる(広井 1997, 2000)。ケアの領域における当事者主権の重要性を説く上野千鶴子は、ケアの定義としてメアリ.デイリー(Daly,ed. 2001)の定義を採用する。「依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組みのもとにおいて、満たすことにかかわる行為と関係」というもので、上野はこの定義が、社会学的であること、相互作用的であること、その他多くの点で優れたものであると評価している(上野 2011)。
ここで重要な点は、ケアを相互行為としてとらえることであり、その観点はさきに挙げたメイヤロフや広井においても共通している。ケアの本質は、単に必要とされる役務の供与と受領ではなく、生身の人間同士の相互作用によって形成されていく関係そのものであって、ケアをそのような相互行為とみることによってのみ、ケアで結ばれる人間の息づかいのレベルまで立ち入ったケアの世界の実相をとらえることができるといえよう。また、現実に存在するケア関係に潜む諸問題、たとえば、なぜ女性がケア役割にこだわるのか、ケアのなかでなぜ虐待が生じるのか、等についても、ケアの相互作用性という観点に立ちながらケア関係の背後にある社会的諸条件をクロスさせなければ、その実態の十分な解明は望めない。