田中耕一,2014,『〈社会的なもの〉の運命——実践・言説・規律・統治性』関西学院大学出版会.
かつて主権者=君主の権力は、最終的には、かれが臣下に要求しうる死においてこそ示されるものであった。すなわち、そこにあるのは、さまざまな力を阻止し、抑圧し、禁止し、最終的には破壊する(殺す)ことによって、支配を確立し服従を調達しようとする、いわば「殺す」権力であり、したがってそのような権力の主要な道具は、なすべき行為の側ではなく、むしろ禁止する行為の側を規定する、(もともとの意味での)法的な操作であった。それに対して、17-18世紀を経て、さまざまな力を阻止し、抑圧し、禁止することによってではなく、まったく正反対に、さまざまな力を引き出し、産出し、増大させる権力があらわれてくる。……それは、力の増大と服従の増大をともに可能にする、ある意味で奇妙な権力テクノロジー、つまり規律の急激な増殖である。
それは、人間の身体を引き受け、練習や訓練、そしてそのまわりに配置される監視や処罰を通して、身体の力を引き出し、増大させ、そしてその有用性を最大化しょうとするテクノロジーであった。それに対して、やや遅れて18世紀の後半にあらわれてくる新しい権力テクノロジーは、個々の身体に照準するのではなく、かたまりmasseとしての、多数の人間の集合態、すなわち「人口population」に照準する。そこで問題となるのは、そうした集合態の水準でみられる、生命固有のプロセスと諸要素、つまり誕生・死・病気などであり、後には事故や犯罪なども追加されていくことになるだろう。そして、規律と同様に、さまざまな力を最大化することを目的としているけれども、その道筋はまったく異なっている。つまりそこで目指されるのは、セキュリティのメカニズムを配置し、生命の状態を最適化することなのである。フーコーはそれを「調整の権力」(Foucault 1997=2007[1]: 246)と呼ぶことになる。 フーコーによれば、調整の権力は、規律の権力を排除するわけではないし、それと交代してあらわれてくるわけでもない。それらは「べつの次元、べつの階梯にあり、べつの対象をもち、べつの道具をもっている」(Foucault1997=2007: 242)。しかしこの2つは、いずれも、それ以前の「殺す」権力とは対照的であって、その意味で「生-権力」と呼ばれる。
[1] Foucault, Michel, 1997, Il faut défendre la société : cours au Collège de France. 1975-1976, Paris: Gallimard. (石田英敬・小野正嗣訳,2007,『社会は防衛しなければならない――コレージュ・ド・フランス講義1975-1976年度』筑摩書房.