松沢裕作,2018,『生きづらい明治社会——不安と競争の時代』岩波書店.※文体は改変
人が貧困に陥るのは、その人の努力が足りないからだ、という考え方のこと。歴史学者の安丸良夫による概念。安丸は、勤勉に働くこと、倹約をすること、親孝行をすることといった、ごく普通に人びとが「良いおこない」として考える行為に注目する。それは確かに良い行為であり、そこまでは大した問題ではない。勤勉に働けば豊かになる。倹約をして貯蓄をしておけばいざという時に困ることはない。親孝行をすれば家族は円満である……。しかしかならずそうなるという保証はどこにもない。勤勉に働いていても病気で仕事ができなくなり貧乏になる、いくら倹約をしても貯蓄をするほどの収入がない。そういう場合はいくらでもある。実際のところ、個人の人生に偶然はつきものだからだ。
ところが、人びとが通俗道徳を信じ切っているところでは、ある人が直面する問題は、すべて当人のせいにされる。ある人が貧乏であるとすれば、それはあの人ががんばって働かなかったからだ、ちゃんと倹約して貯蓄しておかなかったからだと当人が悪いとされる。安丸によれば、通俗道徳の考え方がひろまったのは、江戸時代の後半である。江戸時代の後半に市場経済がひろがり、人びとの生活が不安定になったときに、自分で自分を律するための基準として、こうした思想がひろまった。
通俗道徳をみんなが信じることによって、すべてが当人の努力の問題にされてしまう。その結果、努力したのに貧困に陥ってしまう人たちに対して、人びとは冷たい視線を向けるようになる。道徳的に正しいおこないをしていればかならず成功する、とみんなが信じているならば、反対に、失敗した人は努力をしなかった人ということになる。経済的な敗者は、道徳的な敗者にもなってしまい、「ダメ人間」であるという烙印をおされる。さらには、自分自身で「ああ自分はやっぱりダメ人間だったんだなあ」と思い込むことにもなる。これは支配者にとっては都合のよい思想である。人びとが、自分たちから、自分が直面している困難を他人のせい、支配者のせいにしないで、自分の責任としてかぶってくれる思想だからだ。