山本理顕,2015,『権力の空間/空間の権力——個人と国家の「あいだ」を設計せよ』講談社.
住宅は私的空間である。私たちはその私的空間の中に住んでいる。その私的空間は家族だけの親密な空間である。誰であっても、たとえ公権力であったとしても、その親密な空間を侵すことはできない。その私的空間を私たちは「プライバシー」と呼んでいる。プライバシーとは自由である。私的空間の中の自由である。だから私たちはその自由のために膨大な金額を支払うのである。私たちの一生で手にする収益の大半をそのために費やす。その自由な空間は金銭によって購入されなくてはならないのである。その金銭を支払うことができない人は自由のための安定した空間を手に入れることができないのである。
自由は私的空間の中にある。そして、その外側はインフラ(ストラクチャー)という網の目で覆われた都市空間である。その網の目は公権力によってつくられる。そして不断に管理されている。公権力とは官僚制的権力である。そのインフラは端末まで緻密に計算された官僚機構によって管理されているのである。交通インフラであり、流通インフラであり、情報インフラであり、エネルギー・インフラである。治水、治山そして防災のためのインフラであり、防犯のためのインフラである。その他、その他、その他のインフラである。そしてすべての公共施設はこのインフラの端末である。インフラは常に増殖する。あるいは新たなインフラがつけ加えられる。そしてそのインフラは官僚機構による行政システムに則って慎重に切り分けられ、それぞれのインフラごとに分割統治されるのである。その分割統治された空間が公的空間である。
住宅は私的空間である。都市は官僚制的に統治された公的空間である。そしてその私的空間と公的空間とは厳密に区画されている。その区画された両者は、相互に他の一方を排斥するように働くのである。公的空間を管理するその管理機構は私的空間には関与しない。私的空間のその内部には介入しない。私的空間の自由は公権力によって極めて注意深く”保護〃されているのである。一方の私的空間の自由は公的空間には何の影響をも与えない。自由は私的空間の中においてのみ自由なのである。つまり自由は私的空間の中に閉じ込められる。その自由を閉じ込めるように設計された空間が住宅という空間である。実際、プライバシー(privacy)とはもともと隔離され閉じ込められた状態を意味していたのである。
こうして官僚制的に配置され統制された空間を当然のように私たちは受け入れているのである。こうした隔離されたような住宅に住むことで私たちは十分に満足なのだろうか。このように官僚制的に統治された都市空間に住むことは快適なのだろうか。なぜ私たちはそれを受け入れるのか。それは建築空間のつくられ方と大きく関係しているのである。