[1] 原百年,2011,『ナショナリズム論——社会構成主義的再考』有信堂高文社.
「ありふれたナショナリズム」は、「ネーションからなる世界」という概念的イメージをつくり上げる信条、前提、習慣、描写、実践などによって複合的に編成されるイデオロギー的言説である。それはほとんど無意識に日常的に繰り返され、ネーションを再生産するという意味で「習慣」である。もしナショナリズムの意味が「熱いナショナリズム」(注・例えば、極右政治や分離独立運動、または戦時や特別な行事におけるナショナル・アイデンティティの高揚)に限定されてしまうなら、ありふれた日常の中で無意識に繰り広げられているこのネーションとナショナル・アイデンティティの再生産は、呼び名が与えられず無視されてしまうことになる。そこでビリッグは、「ありふれたナショナリズム」という概念を提示し、それをナショナリズムの一形態として追加することを主張したのである(原 2011: 182)。
スポーツ報道は概して、スポーツ選手がネーションの代表として、ネーションの名誉と屈辱をかけて戦っていると報道する。そしてスポーツ報道の主な消費者である男性は、そのようなスポーツ選手たちの挑戦をネーション全体の名誉をかけた関心事として見守る。そして政治家たちは、しばしばそれを利用して求心力を得ようとする。それはまるで、戦争の代替イベントのようなものである。……このように、戦争とスポーツはしばしば同じような言語を用いて語られる。スポーツの国際試合において、ネーションのために戦い、身を捧げてきた選手は英雄視される。まるで、戦争から凱旋した英雄的兵士のように。スポーツ報道は、このように、「ネーションからなる世界」において、「我々のネーションのために戦う人々」を称えることを収束ポイントに設定した言説である。このようなナショナリズムのイデオロギー的言説であるスポーツ報道は、日々、多くの人々(主に男性)によって消費される。ビリッグは、このような言説の日々の消費、および実践によって、ネーションに対する自己犠牲の精神とヒロイズムが育まれると考える。そして実際の戦争が起きようとしているときに、多くの人々(特に青年)がネーションのために自らの身を捧げようとするのは、そのような日々の言説と無関係ではないと考える。