バトラー「ジェンダー・アイデンティティは遂行的に構築される」(渋谷 2005: 251-2)

渋谷知美,2005,「ジェンダー(バトラー)」大村英昭・宮原浩二郎・名部圭一編『社会文化理論ガイドブック』ナカニシヤ出版,249-52.

 「遂行的」というのは、言語学の用語である。文章の中には、それを発話することが、その内容を「行なう」ことになるものが存在する。たとえば、「私はあなたに百万円あげると約束します」などである。発話という行為をすると同時に、約束するという行為も行なっている(行為を遂行している)。これを「遂行文」といい、「約束する」を遂行動詞と呼ぶ。「命令する」「謝る」なども遂行動詞である。「アイデンティティが遂行的に構築される」というバトラーのメッセージを受けとめるために、ある行為をすることが別の行為をすることにもなるという「遂行」の「同時性」のニュアンスをつかまえておこう。
 そのうえで、ジェンダー・アイデンティティに限らず、アイデンティティというのは、一度構築されたら未来永劫有効というものではなく、絶えず言語や実践によって維持されているものであることを理解しよう。女だから女っぽい言葉づかいをするのではない。女言葉を使うのと同時に「女」というアイデンティティが構築され、男物の洋服を箱るのと同時に「男」というアイデンティティが構築される。私たちは毎日毎分毎秒これを反復しているのである。「ジェンダーは結局、パフォーマティヴなものである。つまり、そういう風に語られたアイデンティティを構築していくものである。この意味でジェンダーはつねに「おこなうこと」である」。
 けれど急いで付け加えねばならないのは、この「おこない」が、行為以前に存在すると考えられる「主体」によって為されていると考えてはならないことだ。まず行為ありき、である。「おこなうこと、もたらすこと、なることの背後に「あること」はない。「行為者」は行為に付けられた虚構でしかない——行為がすべてである」というニーチェの謂をバトラーは肯定する。
 ここで疑問が生じるかもしれない。すでにある言語でジェンダー・アイデンティティを、ひいてはジェンダー秩序を遂行的に構築せざるをえないのならば、現体制は変わりようがないのではないかと。現状を甘受する他に道はないのではないかと。
 答えは否、である。ジェンダー・アイデンティティは言語や実践によって構築される。だとすれば、言語や実践によって、そこから「ずれて」ゆくことも言語や実践によって可能である。
 そのことを「撹乱」とバトラーは呼ぶ。わかりやすいのは、ドラァグ・クイーンである。解剖学的な「男」が過剰に「女性的」なメイクとドレスを身にまとうことで、ジェンダーが、模倣可能なものであることをあばきたて、脱本質化する。そして、ジェンダーとセックスを切り離す。もちろん、「女」が男装してもいいし、「女」が過剰に女性性を演出したり、「男」が過剰に男性性を演出しても、同様の効果が得られるだろう。ルールに乘りながらルールをパロディ化する、というのがポイントだ(粛々と結婚式を挙げながら、ウェディングドレスを着ているのは新郎、タキシードを着ているのは新婦、などというのは「撹乱」として成功する部類に属すると思う)。

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