バトラーによるジェンダー議論の再設定(藤村 2007: 382-3)


藤村正之,2007,「ジェンダーとセクシュアリティ」長谷川公一・浜日出夫・藤村正之・町村敬志『社会学』有斐閣,377-412.

 彼女は、ジェンダーを後天的なものとするとらえ方が、逆にセックスを生物的なるがゆえに自然で自明なものとして、不可触の存在にさせる傾向があったのではないかと批判していった。すなわち、そのような分類分けこそがジェンダー概念が登場した結果の産物であり、ジェンダーとセックスを区別する試みこそがジェンダー的であると指摘されたのである。その考え方に従えば、セックスにおける男女の二分法というとらえ方も、すでにジェンダー概念の支配下にあるということになる。バトラーはそれを端的にこういう。「『セックス』と呼ばれるこの構築物こそ、ジェンダーと同様に、社会的に構築されたものである。実際おそらくセックスは、つねにすでにジェンダーなのだ」と(Butler 1990=1999: 28-29)。もちろん、解剖学的差異や遺伝子上の差異が存在しないなどというわけではない。そうではなく、自然な差異は多様にあるはずなのに、生殖器の形状も遺伝子もつねに「男」か「女」かに分けられるはずだというジェンダー的知が先行することで、セックスに関するさまざまな諸現象から、そのような二分法に合致する基準のみが取り出されてきたのではないかということである。

 バトラーはさらに次のように指摘する。「女というのがそもそも進行中の言葉であり、なったり、作られたりするものであって、始まったとか終わったというのは適切な表現ではないということである。現在進行中の言説実践として、それは介入や意味づけなおしに向かって開かれているものである」(Butler 1990=1999: 72)。このことは、先にみたボーヴォワールの言い方においても、ジェンダー化される以前の中立的な「ひと」が存在するかのような想定がなされていることへの批判につながる。それを一歩先に進めた認識をバトラーは唱えようとしている。すなわち、「自然」なものであるという位置づけをセックスに与えること自身が、人為的であり政治的な行為なのである。むしろ社会や文化から切り離された「自然」はどこにも存在しないと考えるべきだということである(河口 2003a)。

 バトラーの問題提起は、ジェンダー概念の位置づけをめぐって2段階目の認識をもたらすことになった。確認しておこう。第1の段階は、ジェンダーが、生物学的な性と異なるものであることを強調するなかで用いられたものである。セックスが所与であるのに対して、ジェンダーは社会的に構築された現象をさすことが意図されており、身体とは明確に区別されるものとして存在視されている。しかし、バトラーの議論の登場によって論争化された第2の段階は、ジェンダーを肉体的差異に意味を付与する知として広く位置づける。そのことにより、これまでセックスとしてジェンダーとは別物と考えられていた事象も、あくまでジェンダーが登場したことによって、はじめてセックスを分ける知が可能になったととらえられる。そうすると、再度ジェンダー的視点の登場の重みを理解したうえで、セックスとジェンダーの両者を再構成する必要が出てくることになる。

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