北田暁大,2011,『増補 広告都市・東京——その誕生と死』筑摩書房.
ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンによれば、コミュニケーションとは、①ある情報の選択、②その情報の伝達のあり方についての選択、③受け手による①と②の差異の観察という3つの選択の不可分の統一体であるという。たとえば、ある人Aが、「君は天才だねえ」という発言を皮肉気な口調で述べるとき、Aは①「君は天才である」といった内容を持つ情報を提示(選択)し、②その情報が皮肉であるということがわかるような語り方(伝達様式)を選択している。そして、受け手Bは、字義どおりの意味では褒め言葉である言語的情報①と、褒めているとは思えない伝達様式②の差異を読み取って、Aの発言を理解(特定の理解を選択)する③。この3つの選択プロセスの総体が、ルーマンが言うところのコミュニケーションである。
重要なことは、ルーマンがこの①〜③を切りはなせないものとし、したがって、受け手による理解があってはじめて送り手の行為・発言の意味が獲得されるとしていることである。つまり、送り手の側の選択である①②といった「伝達それ自体は、さしあたりなんらかの選択の提示にすぎない。それに対する応答によってはじめてコミュニケーションが完結することになり、その応答のいかんに応じて、コミュニケーションという統一体がいかなるものとして成就しているかを読み取ることができる」わけだ。
厚かましいBはAの意図を読み切れず、素直に「いやあ、それほどでも」などと返してくるかもしれない。しかしそれでも、コミュニケーションそのものは成立している。誤解であってもなんでもいい、ともかくもAの発言・行為が、Bの次なる行為へと接続されさえすれば、コミュニケーションは成立してしまう。コミュニケーションとは、意図やメッセージの交換の場などではなく、なんらかの形で行為が接続されていく過程のことをいうのである。
もちろん、あまりに誤解ばかりだと、コミュニケーションに携わる人びとの認知的負担はどうしようもなく増大してしまうだろう。そこで、社会システムは、「目下のコミュニケーションのテーマはなにか」ということを指し示す状況の枠組み(ルーマンの言葉では「コード」)を設定し、その状況において無視してよい出来事とそうでない出来事とを制度的に区別できるようにする。たとえば、数学の授業という状況において、教師の発言(行為)に歌うという行為によって接続することは、不可能というわけではないけれども、ふつう、許容不可能(無用)な連接行為として処理され、黙殺されるか、逸脱と扱われてしまう。社会システムは、さまざまな状況の枠組みを整序することによって、「誤解」を含めあらゆる接続可能性に開かれているという、コミュニケーションの本質的な困難を〈隠蔽〉するのである。 こうしたルーマン的なコミュニケーション概念から私たちは、ふたつの「社会性」概念を抽出することができるだろう。ひとつは、ある行為が誤解されようが、ともかくも別の行為(理解)へと接続されコミュニケーションが生成する、というつながりの社会性。もうひとつは、誤解の可能性を低める共同的ルール(状況の枠組み)にもとづいて行為を調整するという秩序の社会性。前者は、意図やメッセージが本当に伝わっているかどうかということよりは、行為が行為に接続されること自体を至上課題とし、後者は、行為の接続が第三者的な視点から見て誤解を含まないものとなることをめざす。どちらが「本当の社会性」なのかを問うことにはあまり意味がない。つながりの社会性と、秩序の社会性は、絡み合いながら微妙な関係を保ち、私たちの社会空間を可能にしているのだ。