平井勇介,2019,「嫌がられる環境を誰が受け入れるのか?」足立重和・金菱清編『環境社会学の考え方——暮らしをみつめる12の視点』ミネルヴァ書房,59-78.
誰が嫌がられる環境を受け入れるのか。というテーマに原理的な解決はないといわれている。その大きな理由は、迷惑施設には社会的必要性と加害性の2つの特徴が備わっているためである。迷惑施設の社会的必要性とは、多くの人々が生活上その施設を必要不可欠と感じていることを意味している。加害性とは、その施設が近隣の人たちに何らかの害をおよぼすことを意味している。迷惑施設がこれらの特徴をもっているために、加害性はあっても社会的必要性のためにどこかに施設を建設する、という判断が下されているのである。
また、この問題の厄介なところは、被害者である迷惑施設の近隣住民に対して、多くの人たちは加害者意識をもちにくいことである。自分たちは“ふつう”の生活を営んでいるだけであり、特段の贅沢をしているわけでもない。そうした“ふつう”の生活を支えている迷惑施設の近隣には不安を抱えている人々がいることに、私たちはさほど意識を払わない場合が多いのではなかろうか。特定の人たちに被害が集中する一方、多くの人たちが施設の存在によって生活上の利益を少しずつ(日常生活を営めるという程度に)得ているという状況が、私たちに加害者意識をもちにくくさせている一因と思われる。
これまで迷惑施設を受け入れる地域では住民の反対運動がしばしば生じてきた。そうした運動は「住民エゴ」として処理される傾向が強かったといえる。つまり、迷惑施設の社会的必要性にもかかわらず、立地候補地の近隣の住民たちは自分たちの被害だけを主張していると批判されてきたのだ。こうした住民の態度は、NIMBY(Not-In-My-Back-Yard)症候群と呼ばれる。「社会的に必要な施設だが自分の裏庭にあるのは嫌だ」というNIMBYの態度は、はたして「住民エゴ」と評価してよいものであろうか。 住民のNIMBYを、少なくとも環境社会学やその近接領域の研究者が利己的だと非難することは少ない。NIMBYを「住民エゴ」として切り捨てれば迷惑施設の建設はすすむが、当該地域の住民は自分たちが施設を受け入れることに到底納得できないまま、日常の生活をつづけなくてはならなくなる。本当にその迷惑施設は必要なのか。なぜ私がみんなのために負担を受け入れなければならないのか。こうした問いをもちつづけながら生活していくのは辛いことであろう。また、NIMBYの声を無視すれば、現代社会の矛盾を見逃してしまうことにもなる。私たちの生活にはどこか無理があり、迷惑施設問題のような局面で社会の矛盾が露わになる。だからこそ、NIMBYの声に向き合い、応答するなかで、現代社会の矛盾を少しでも解消しようと考えるのである。