Koolhaas, Rem, 1995, Small, Medium, Large, Extra-Large: Office for Metropolitan Architecture, Rem Koolhaas and Bruce Mau, New York: Monacelli Press. (太田佳代子・渡辺佐智江訳,2015,『S,M,L,XL+——現代都市をめぐるエッセイ』筑摩書房.)
ジェネリック・シティは中心の束縛、アイデンティティの拘束から解放された都市である。ジェネリック・シティは依存性がつくり出す負の連鎖と訣別し、ただひたすら今のニーズ・今の能力を映し出すのみである。それは歴史のない都市だ。大きいからみんなが住める。お手軽だ。メンテナンスも要らない。手狭になれば広がるだけ。古くなったら自らを壊して刷新する。どこもエキサイティングで退屈だ。それは「薄っぺら」で、ハリウッドの撮影スタジオみたいに毎週月曜日の朝、新しいアイデンティティを制作することができる。(p14)
ジェネリック・シティはアメリカで始まったのだろうか?オリジナリティのなさが半端じゃないから、輸入するしかない?ともあれ、ジェネリック・シティは今やアジアにもヨーロッパにもオーストラリアにもアフリカにもある。田舎から、農業からきっばり足を洗って都市に移り住むといっても、従来のような都市移住とは異なる。ジェネリック・シティへの移住とは、その恐るべき浸透性が田舍にまで達した都市への移住を意味する。(p14)
ジェネリック・シティとは、都市生活の大半がサイバースペースに移った後に残った場所を言う。そこでは膨張させられた弱いセンセーションがさまざまな感情の中間地帯でまれに起こり、その控え目でミステリアスな感じは、ベッドランプに照らし出されただだっ広いスペースのようだ。通常、座して眺められるジェネリック・シティは、古典的な都市に比べて落ち着いている。ジェネリック・シティでは個々の「体験」が1カ所に集められるのではなく——同時に起こるのではなく——互いに距離をとって配置され、ほとんど気づかないほど淡い視覚体験からトランス状態をつくり出す。(p15)
かつて究極のニュートラル性を体現していた空港は、ジェネリック・シティでは最も際立った。個性的なものの一つであり、差異を打ち出す最強のツールとなっている。そこでは平均的な人間が一つの街で体験しそうなことのすべてが可能でなくてはならない。……こうしてコンセプチュアルな使命を背負った空港は、免税ショッビング・壮観なる空間、フライトの発着頻度やコネクションの信頼性といった。航空そのものとは関係ないアトラクションの猛烈な操作を通して、象徴的な記号としてグローバル集団の無意識に刷り込まれていく。その図像学・機能性から言えば、空港は超ローカルと超グローバルの濃縮ミックスだ。その都市においてさえ手に入らない商品が買える点で超グローバル・そこ以外ではお目にかかれないものが買える点で超ローカルである。(p17-8)
すべてのジェネリック・シティはタブラ・ラサから出発する。もともと何もなかったところにも、いま、それはある。もともと別のものがあったのなら、それと入れ替わって出現した。でなければ、歴史的都市ということになる。(p21) ジェネリック・シティが喚起するのは特定の記憶ではなく、一般的記憶、記憶の記憶だ。すべての記憶が揃っているわけではないが、少なくとも抽象的な、かたちばかりの記憶、永遠に繰り返されるデジャヴュ、ジェネリックな記憶だ。(p28)