「地域」はそもそも、誰かが世界の一部を切り取ることによって浮かび上がってくるものである。
何かを切り取らないと地域は出てこない(地域は境界性をもつ)。そして、その「切り取り方」にも色んなやり方があって、それは文脈にもよれば、時代によっても違う(地域は文化性・歴史性をもつ)。
いや、もっとこういうべきである。そもそも世界のすべてはつながっている。どこかで切れ切れになっていて、「地域」がきれいに分かれているなどということはない。すべてはつながっているのだが、そのつながっているもののなかから、何らかの固まりを切り出してきたときに「地域」は立ち現れる。しかもそれが、全体の一部でありながら決して断片ではなく、それのみでなお一つの全体でありうるもの、それが地域である(地域は統一性、総合性をもつ)。「地域」とはこうして、ゴロリとそこに横たわっているようなものではない。互いにつながりあっている世界の中から、何らかの固まりを見つけ、切り出してくる者がいるから「地域」になるのである。地域はだから、その「切り出してくる者」の立場やものの見方によって変わる。その者の見方がしっかりしていれば地域はしっかり示される。逆にその者の見方がぼんやりとしていれば、地域はぼんやりとしか見えないことになる。
さて、地域学の学びの中で、対象となる地域を世界の中から切り出してくる者——それこそがほかならぬ「私」である。どんな地域を切り取ることができるかは、「私」が世界をどう見ているかにかかっている。とすると、先の「足もとの地域を知ることが、自分を知ることにつながる」は、もう一度、別な形で裏返ることにもなるわけだ。すなわち、「地域を知るためには、自分を知らねばならない」と。 漠然と世界を見ているかぎり、地域についての認識もまた漠然としたものにしかならない地域はそれを切り取る者の見方を反映する。地域を知ることと、私を知ることは同一の事象の裏表である。「地域ってなに?」と聞かれてその人が答えた答えの中に、その人自身が含まれる。地域学とは、地域と自分を同時に学び、深めていくことである。漠とした世界の中からしっかりと地域を切り出し、うまく見出すことができたなら、そのことによって自分自身の認識が深まったことになる。地域がよりよく見えるようになることとは、自分のものの見方を鍛え自分と、自分という存在を高めていくことである。そしてそのように自分を高めることによって、地域もまた以前よりははっきりとその姿を現すようになっていく——。
山下祐介,2021,『地域学入門』筑摩書房.