岩本茂樹,2015,『自分を知るための社会学入門』中央公論新社.
通常、私たちは「自分っていったい何?」と自身に問うことなく生活しています。ところが、サークルや、友人、恋人との関係が揺らぐと、他者だけに留まらず、自分という存在に目を向けるようになります。そして、自分を責め、悩み苦しむのです。
また日常においては、私たちは無意識に自己が理想とする個性を他者という鏡に映し出されるよう、自己を操作しがちです。つまり、私たちは他者からの評価を常に気にしながら生きているのです。
ところが、操作された自己と、操作している自己とが乖離しすぎたり、望むような自己が他者の鏡に映らなかったりすると、不安でいたたまれなくなってしまいます。太宰の『人間失格』は、この自己が理想とする個性を操作しようとするあまり、操作している自己と大きく乖離してしまい、抜け殻のような人間になってしまった姿を描いたものです。
ミードが指摘したように、私たちは行為の結果の後でしか。自分の性格を認識できません。さらに、クーリーが述べるように、私たちは常に他者に映る自己像を想像しながら生きているわけです。だからこそ、常に自分を映し出してくれる友人や恋人の存在は大きく、失った時の痛みは言葉で言い表せないほど辛いのです。
このような議論から導きだされることは“私探し”に奔走したところで、私が見つかることはないということであり、幻想に過ぎないということです。
「その人の為に」と注意したことが、相手にとって「あなたは厳しい人」という悪い評価になってしまおうとも、その人の鏡に映った像の評価がそうであれば、しかたがないことなのです。あっけらかんと「そう映ったならしかたない」とあきらめるしかないということです。
また、ミードに依拠するなら、母親から「あなたは優しい子ね」と言われたとしても、将来もその像に沿つて行為するかしないか分からないということです。つまり、自分を問いつめ、苦しみ悩んだところで、答えのでないスパイラルに陥るだけなのです。
村上春樹は、このような苦しみについて、次のように述べています。
「今、世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。僕はこういうふうに文章で表現して生きている人間だけれど、自己表現なんて簡単にできやしないですよ。それは砂漠で塩水飲むようなものなんです。飲めば飲むほど喉が渴きます。にもかかわらず、日本というか。世界の近代文明というのは自己表現が人間存在にとって不可欠であるということを押しつけているわけです。教育だって、そういうものを前提条件として成り立っていますよね。まず自らを知りなさい。自分のアイデンティティーを確立しなさい。他者との差違を認識しなさい。そして自分の考えていることを、少しでも正確に、体系的に、客観的に表現しなさいと。これは本当に呪いだと思う。だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。一貫した自分なんてどこにもないんです」(『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』)
アイデンティティーを確立させなければならないという呪いから解放されることこそが、現代の苦しみを解く鍵であることを村上春樹は指差して示してくれているのです。みなさんも、“私探し”という呪縛に「さようなら」を告げましょう。